強者の「表現の自由」、弱者の「機会の均等」を奪う?■あいちトリエンナーレ

「表現の自由」で話題の「あいちトリエンナーレ」

「表現の自由」の話は、あまりにも政治的な話ですので専門家に委ねます。
今回、ほとんどの方が注目してくれない「機会の均等」について動画で話をしました。

無名アーティストや新規団体に重要な「機会の均等」

今回、議論の中心は「表現の自由」ですが、他国に比べて、日本は「表現の自由」は確保されているという前提で話します。
たとえば、民間の展示施設で政権批判の展示をした場合、撤去や逮捕なんてないからです(国歌を歌わない教師もいるし、反天皇デモの届け出も可能です)。
実際、私の知人のアーティストの”ひどい”作品も、展示場の作品に黒い布を掛けられて展示され、撤去はされませんでした。
今回、話題になった作品は「表現の不自由」な作品は、10億円とも言われる税金が投入され、名だたる企業が名を連ねる、日本最大級の芸術祭「あいちトリエンナーレ」で展示され、大きな注目を浴び、作品としては本望だと思います。
実は、ほとんどのアーティストや新規団体は、今回のような公的施設での展示や文化庁や名だたる公益財団、企業から資金を得て展示をさせてもらう機会がないのが実態だからです。

文化庁からの助成は相当な権威

以前、私が書いたブログです。
「文科省、文化庁、東京都の後援名義の取得が詰んだ話」

文化庁で最もカンタンな「後援名義」の新規取得ですら困難です。
応募条件になっている東京都の後援名義が取得できません。

文化行政は「何をやるか」より「誰がやるか」で決定?

「わよう書道会」のような新規文化事業は、公的支援を得ることは困難です。
日本の文化行政の評価基準は、「何をやるか」より「誰がやるか」を重視していると思います。
今回の「あいちトリエンナーレ」でも、内容が不明の段階で、国、地方自治体、公益財団、上場企業が資金提供や協力が決定していたのだと推測します。
少なくとも民間企業は、昭和天皇を好意的に扱わない作品の展示にNGを出すはずです(協賛の麻生グループは、麻生財務大臣の弟がトップだし)。
運営団体は「批判は”表現の自由の侵害”で押し切る、むしろ、注目される。」と言う思惑も見え隠れします。

強者が「表現の自由」を訴えてもピンとこない

今回、私が違和感を感じるのは、素晴らしい機会が与えられ、自由にできる強者の方々が「表現の自由が奪われた」と嘆いても、機会の均等がない、撤去すらされない多くのアーティストや運営団体の人は、共感しにくいのです。
自分が展示したい場所に、他の展示が並んでいて、その作品が撤去されて「表現の自由がない」と言われたら「もう十分表現しているでしょ」ってなるんです(今回の議論になってる話は、こういう下世話な話ではないのでしょうけど)。

内容を見ない芸術文化行政

年7週以外で「青」書展が開催。さらに「黄」の総合は書が含まれる。

書道業界の話ですが、公募書展は、運営団体名が異なるだけで出品者は同じなのは当たり前です。
これでは、同じ人達ばかりが好立地で安価な公的な美術館を独占できます。
実は、現在の書道業界がそれです。
【例】
親団体:毎日書道会ー子団体:創元書道会
親団体:読売書法会ー子団体:謙慎書道会 など
(親子で、東京都美術館や国立新美術館の公的美術館を利用)
【仕組み】
大きな団体が”公募展”を実施し、公的施設を利用。
→所属者は2度の出品。
→美術館が書展だらけに(東京都美術館は30%弱が書展。上の画像参照)。
→公的支援を受けられない弱者の新規団体の「機会の均等」を奪っている。
補足1:大手の公募書展の”公募”は形式上。実際の公募者は1%以下とも言われ、実態は内部展。
外部出品が正当な評価を得ることは難しい(入選は可能)。
こういう実態を把握しながら放置している文化行政は問題だと思うが、反発しても”不自由”行きになるだけで、誰も言えないと思う。
補足2:書展ばかり増える背景は、書道業界は公募展を利用した集金システムが確立しているため。出品料だけじゃないんだよ…。当たり前だよね。

「機会の均等」がないと強者の「表現の自由」が支配する

強者の下の「表現の自由」は自由か?

この機会に「表現の自由」があっても、「機会の均等」が与えられないと、強者の下で「表現の自由を享受するしかない」という本末転倒な、独裁恐怖政治のような状況が生まれることを知ってほしいのです。
そうしないと、生活のため、売れるために一定の思想の下に入り「表現の自由」を享受します。
そして、それにそぐわない「表現の自由」は、定量的なルールを設け「機会の均等」を与えないことで影響力をなくす≒実質「表現の自由」がないと同じ状況を作ることが可能です。
実際、この仕組みが機能しているため、文化行政、公益財団、大企業を飲み込み、実行できたのかもしれません。
今回、その強者の仕組みに対して、普段芸術にあまり関心がない層から「No!」が出た状況なのかもしれません。

「ガソリンを撒く」等のテロ予告をした犯人は、オリンピックもあるので、逮捕して、再発防止に努めてもらいたいです。

美術評論家連盟のコメント

美術評論家連盟さんが以下のようなコメントを出しています。
www.aicajapan.com/wp/wp-content/uploads/AICA_Japan_opinion_2019_08.pdf

美術評論家連盟は、暴力的威嚇や脅迫による混乱を理由として、また、河村たかし名古屋市長による、それらの威嚇に同調するかのような展示中止要請も受けて、

まるで河村市長の中止要請が検閲かどうかは置いといて、中止要請が威嚇に同調するかのうように感じた人は少ないと思います。

今回の事態の経緯の問題は、こうした暴力行為から市民の活動を守ることが警察を含めた行政の役割であるにもかかわらず、暴力行為から守るという理由で、その暴力が要求する展示の中止を受け入れざるをえなくなったという点にあります。
民主主義とは、個々の市民がそれぞれ自ら判断し意見を表明する能力を持つことを国家および行政が尊重し信頼すること、そしてそれによって市民も国家、行政への信頼を醸成しうるシステムです。行政がこの信頼関係を放棄することは、この国が恐怖に支配され暴力に追随する危険な国だと自ら示したことになります。

展示を中止することになったのは、運営も「想定を超えた」と言っていたように、準備不足だったと理解しました。
そもそも、運営にトリエンナーレレベルの安全面含めた企画や根回しを実行できる人がいたのでしょうか?

行政による作品の撤去や隠蔽は、すなわち、その作品の意味を固定して市民の自主的な判断能力を信用しないこと、市民自ら判断する権利、鑑賞する権利を奪うことを意味します。市民がなにかを知ろうとする健全な好奇心さえ遮断されてしまうということです。
このような状況では健全な文化の発展など望めません。

「行政は芸術に口出しせず、「表現の自由」のための資金や警備などは負担してね。」とも取れます。

「行政は判断せず、お金を出す」は芸術の独裁では?

行政の芸術企画への口出しはダメだけど、芸術業界の一部の人が展示だけで可否を決めるとなると、その個人や補助金交付団体に権力が集中しませんか?
前述の「あいちトリエンナーレのアート業界の重鎮を敵にするよ」というような脅しが生まれませんか?
ちなみに、私は芸術団体の助成金に数年間、申し込みましたが1次通過すらしません。
通過した企画を見ると「和様は、この創作ダンスや大きな塊に負けたのか。」と問題点を
「何がダメなのか教えてほしい」と問い合わせしましたが、審査内容は非公開で理由は教えてもらえません。
だから、何が基準になっているのかさっぱりわからないわけです(←グチです)。
そのうち、複数の方のお話を総合すると
・大型支援金の公募は、内定の候補者がいて、その団体にお金を出すための仕組み(資金のある大企業の団体に出てたりする)。
・大金をもらえる公募で低倍率は、業界では知られているため応募しない。←日展の受賞者が作品を書く前から決まっていると言う話と似てるな…。
・書道の採択事例がないのは、書道関係者が審査側にいないから。←主要芸大に書道がない影響かな?
これらを鵜呑みにしてはいけませんが、近いことが書道業界にあるので、審査や運営側が「表現の自由」を叫んでも、アーティスト側や新規団体は、不自由な暮らしを強いられる部分はあるんだろうなと思います。
芸術業界で交付金を引っ張ってくる権力者に嫌われたら、芸術業界では実質「表現の自由」を奪われてしまうってことになります。
そのため、業界健全化のためにも、行政や政治家は、芸術に口出しせず、運営や補助金の交付決定権者や団体に対してチェックする仕組みが生まれたらいいなと思うのです。
かといって、行政は彼らと癒着していたら、なんの意味もないわけですが…。

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